中村石材工業株式会社              

 

 

 

 

 一 韓国倭城の現状

 倭城は文禄・慶長の役(一五九二年から七年間)に豊臣秀吉が明帝国の征服を企てその一段として朝鮮半島に出兵し、その際に出城としての城を築いたものである。従って、倭城の存在は広域に渡る。しかし、城郭としの体裁を整えられたものは、日本からの物資補給や、前線基地としての慶尚南道周辺の地域に集中している。また、この役が七年と極めて短い期間にあるが、築造は、文禄期と慶長期の二回に分けて集中的に築造されている。このような短期間では、小さな簡略な城の築造と考えられるが朝鮮出兵の総数は、約一六万人にも及ぶことから半端な兵力ではない。(天正20年 高麗渡海の陣立て)。このような大軍を進駐させるにたりる規模を備えていたことが現存する城跡や、「征倭紀功図巻」等の資料によっても伺い知れる。この、絵巻には、天守、櫓、土塀などが描かれておりその容姿からは、織豊期時代に築造された城郭とは大差のないものである。

また、築造以来その城郭として機能していなかったことや、近年の都市化の影響を受けておらず、築造当時の状態を現在に引き継いでいるものと思われる。一方、日本の城郭は江戸時代の三百年間に拡大、修理、改造等を重ねられており、一六〇〇年初頭には(徳川時代に入り)は大規模な機能の変化(防御の城から役所的な機能を有す城へと大きく変貌をとげ)その築造方法にも大きく影響を及ぼした事は、事実である。 このような中、韓国における倭城調査研究行う事は、日本の織豊期時代に築造された城郭を知る上でも貴重なものと考えられる。また、元和年間に築かれた、大阪城などを始め多くの城に用いられた築造技術は、このころを境に道具、石材を加工する方法などの点で大きく飛躍しており、何らかの系譜を読みとれるものと考えられる。 

 一方、近年の韓国では、都市化の中に組み込まれた倭城もあり、地方では観光資産としての活用も考えられており、一部の倭城では国家プロジェクットとしての国際港の建設に隣接している場所もある。これらの倭城はその存亡に大きく影響を及ぼしつつあり、一部の倭城では、現在日本で行われているような修復工事ではなく、一昔前の(十数年前)修復工事を行われ、築造当時のものとはかけ離れたものとなっている場所も少なくないと聞く。

このような中、我々は前記した目的をもって、近い将来に何らかの変化を伴うであろう二カ所城郭を主体に、石垣の残存状態を記録に残すべく平面測量調査及び、断面測量調査を試み、織豊時代の築造技術や、現在に至る技術の系譜などを考えてみることにした。

 二 調査箇所の選定と調査方法

  数多くの倭城が点在する中で、現在早急に現況調査を急務とする順天倭城 西生浦倭城 熊川倭城を選定した。順天倭城は、現在石垣の解体修理が行われており、その動向を確認する事として、開発計画を進められている蔚山市にある西生浦倭城の現地測量調査を行い、国家プロジェクトのコンテナー基地建設を進められている鎮海市の熊川倭城を踏査する事とした。

⇒(倭城分布図)

■ 文禄期築城

● 慶長期築城

○ 築城の時期不明

 

 

 三 西生浦倭城の測量

場所が韓国内であることから、短期間に測量を終えて返る必要性と現地が草木の茂る状態で調査期間中の労力の大半が草刈りに費やす事から現地ではデーターの収集のみとし現在の測量方法で最適である、光波測距儀併用のトランシット測量器と断面の計測は、レーザー測角器を使用して、トラバース測量をおこなった。現地の詳細な地形図が無いために基準点がなく、仮の基準を設けて座標測量とした。(写真  )一年目の2002年は本丸部分 二年目の2003年は本丸の一部と二の丸の一部平面測量おこなった。断面の測定は主要な高石垣を中心に各面を測定した。しかしながら、測量時期が雨期にかかり十分な時間が得られない等の条件で現在未完成の状態である。引き続き残りの測量を行いたく思っています。

 

 

 

   

            

       

 

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