中村石材工業株式会社

            

 

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 四 調査を行って解ったこと

基礎の資料を取りながら色々の観点で推測した。

一 ほぼ築造当時の状態で残存している事から、その築造方法が解明できないか。また、日本ではその城が長年に渡り使用されており時代の重層が複雑になっておるのに対して、この地はそれらの事柄が明快に地形が物語ってくれる。その一つに城郭の形成と順序がある。

西生浦倭城を例に考察してみると。まず、日本海に面した、入り込んだ岬を利用して位置の選定がされている。これは、日本からの物資の搬入を意識したもので、大型の船は沖に停泊させ小型の船で物資を運び込むのに適切な地形を利用したと考えられる。これは、金海竹島倭城や熊川倭城その他のこの地の倭城の共通点は明らかである。そして、次にこの地形を利用して縄張りを行うわけであるが、敵地に攻める目的と攻められる防御を考えられて縄張りを行われている。しかし、西生浦では、その短い間でも攻めるときと、防御では、随時石垣を築き直された形跡があることから、その形態は目的に応じて変化している。次の要素は効率的に築造する必要がある。防御のためには高い石垣を築く必要がある。日本のような丘陵地であれば小高い丘に築かれているが、岬の先端部分を利用した城郭では細長い地形の入り組んだものになりがちである。このために石垣の前部分を掘削して石垣を高くする工夫が、石垣に沿った縦堀と理解できる。また、工事の効率を計る上でも掘った土を石垣の上部の盛土に使うことはまた、地形を平滑にする上で土量のバランス上(運動量が減る)有益であると考えられる。こして、城郭の形態が概ねできあがったと考えられる。後は標高の高い場所を利用して天守をを設け、縄張りの段階で馬だしの方法と規模を設定、その上の櫓台と土塀の構造等の作事を行う。日本の城作りは、まず縄張りを考えて城作りを行うように考えられていますが、短期間で築造を行わなければならない韓国倭城では、地形の条件と縄張りにあわせた工夫があったのではないかと考えるゆえんである。

二 石垣の築き方の工夫をみると、多くの倭城を細部に渡って考察したわけではないが、現在残されている石垣の築き方は当時の野面積み技法を用いているのは石材の配列、角部分の形態等から明らかである。おそらく当時の石垣の築造に携わっていた技術集団の「穴太積み」技術を移築したものと思われる。そして、今回の調査では、その築造を行う上での工夫を考えてみる必要がある。石垣の高さは約7mで郭を形成している石垣の平均的な勾配は60度前後である。枡形を形成している石垣や虎口に用いられている石垣はやや勾配がきつく作られている傾向が見られるものの70度前後である。角部は、角石と門脇石で構成される完全な算木ではなく、角石のみが控え部分(長辺方向)を交互に意識した程度のものである。所々には、縦長の石材も使われており、この当時石垣の特徴を示している。また、桝形石垣の正面石垣には一回り大きい鏡石を配列している点もその特徴を示しているものと思われる。石垣自身の特徴は日本の同時代の特徴と同一のものと思われる。ここで、私が興味を持つことは石材の調達と、その採取方法である。韓国の石材は花崗岩 安山岩が豊富にありしかも古代6世紀頃には優れた花崗岩で密に加工された石仏等が豊富に今でも残っている。日本では石室に石垣を用いられた時代である(この石材を使う方法は渡来人がもたらした技術でもあるが)。その後日本は、城の石垣に用いられるまで、大量に石材を使用することはなく、比較的加工の容易な木材を主にした「木の文化」へと移行している。しかし、造園や石彫などにはその技術は伝承されていたもののやがて大量に石材を使用する事はなくなり、その技術は衰退していったものと思われる。このような環境の中で大量の石材を使う城の普請が始まる。築造当初は限られた場所で一部城門周辺に石材で石垣を築かれていたものが、安土城 大阪城(豊臣)を皮切りに城郭全体に石垣を築くようになってきた。しかしその石材は加工を伴わない野面石が主流であり、近郊の山合いや河川等の転石を集められており、その形状も多少の加工を行ったものにすぎない。よって、倭城の築城もその系譜の延長線上であるのは当然である。しかし、韓国の石に対する文化を考えてみると、当然石材を切り出す技術はあったものと考えられる。また、切り出せるような道具もあったものと推測される。一部の倭城の石垣には、ほぞ穴のある石材も確認されており、少なくとも石を割る作業は実在していたと考えられる。その後の日本の社会状況は、関ヶ原の合戦以後、城の拡張と拡大が行われ、より高く大阪城や伊賀上野城では30mを越える石垣も見られるようになり、より大規模になる。また、大量に使用する場合は、材料の規格化が必要となる。大阪城の築城には平石の控えや、使用場所に応じた寸歩が記録されており、その規格に合わないものは、別の利用を行われた事が解っている。石積み方法も石材の加工を伴う打ち込みはぎ 切り込みはぎのによる石積み方法に代わり、構造的に弱い角部等は角石と門脇石が交互に組み合わされる算木積み等の技術も確立され、当然石垣勾配もより急になっている。急速に石垣技術が確立される時代である。しかし、幾ら大量に石工事が合ったとしてもわずか十数年足らずの短い期間に、野面主体の石垣から、規格化された割石主体の石積みに変化するであろうか。いささか、日本の技術の延長線上だけでは考えにくい面もある。

このような状況の中で、唯一異文化と交わったのが倭城の建設であり、日本の石を積む技術の変貌に何らかの関わりがあったのではないかと思う。今後倭城の調査を進めるに当たりその石材の調達方法と 築造当時の石材の採取方法に大きく興味を覚える。のような観点で興味を覚えるのは熊川倭城に残されている谷筋に散財した石材である。この地は熊川倭城の内部にあるものの、通常出入りしていたと思われる通路部分から離れており山の谷筋を利用して、石材が切り出され、海に向けて石材を下ろされた所であることは、残存状態やその構造から間違いない。しかし残存している石材の重量は10t以上の巨石から1t程度の比較的小さいものまでまちまちであり、またその形状も自然石から、加工されたと思われる比較的面の奇麗な割石まであり、今後詳細に調査する必要がある。しかし、ここで興味を持つのは、石材の下に小石大の礫が堆積していることで、このことは、石材を下ろす際に下の地盤を補強して下に下ろされたことである。これに似た場所として大阪城の石を切り出した岡山の前島でも見られることである。おそらく、熊川倭城の石材はこの地から採取されたものと考えられるが、それ以外の近郊の城にも運び出されたものと推測される。

 

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