桜門石垣修復工事

 

工事の性格上、修復を行なうことを主目的としており、工事に付随する項目に対して調査を行なった。この為に調査目的が明確になっていない事、細部にわたり調査を行なえないこと、又事例的研究がなされていない為事物の解明より、今後の参考資料として活用されることとして記載した。

1.石材調査

一般的に大阪城は築城時代の後期に属し、技術的には完成された技法でもって石積されている。特に今回修復工事を行なった桜門桝形石垣は、「切込ハギ」の技法で巨石を用いて石積みされており、全国的に珍しい石垣である。

@ 石組調査

全体的に見れば、南側、北側石垣共に隅部で大石(30t級)を配置し、そのなかで横方向を基調として石材を配列したと思われる。縦方向の変化は石材の大きさにより生じたもので、間詰石の使用、もしくは石材の切込で処理されている。この方法は、現在の石積方法と同じで裏栗石、足場の状況によって影響を受け、築城当時も現在と同様のことが考えられる。

 

 

又、石材と石材との間は、比較的均一な目地(約2〜5cm)になっており、石材上下の合端も良くあっていた。現在では、間知石(石材の裏側が痩せた三角形の石)で合端を合わせており石材が耐力的に弱くなることから、コンクリートで補強される)当石垣では現在のようなことではなく、裏側まで石材がうまく噛み合うようになっていた(石材も出来るだけ体積のあるようになっていた。)このことは、合端加工に相当の労力が必要で幾度となく石材を置き換えられていたと推測される。当時クレーン等の機械が無かった事から石材の吊り上げよは、石材の起こし倒しの方がより楽であったと思われる。

 

次に個々について見ると、
a.
南側石垣東面の角石(17番)で石材が前面に向かって斜めに石積みされていた。その下の石材(23番)との隙間には間詰石が埋められており、不安定な状態のようにみられた。げんに表面が焼けており下の合端面が割れて、少しであるが石材が前面に倒れた状態になっていた。しかし、撤去時裏込め栗石を取り除いた状態でも石材単体で自立していた。また、下部(1819番)に使用されていた石材控え長さが2mを越す石材が用いられており、その上で石材が固定されていた事から意識的に(計画的に)石材が置かれたと思われる.(美観的に配慮されたと思われ硬いイメージのある石垣面に不安定な石材を置く事により『笑い積』に準じる面白みのある石面構成になっている。

 

 

b.北側石垣「エボシ石」右側の石材(9番)が「エボシ石」に横たわるように石積されていた。撤去時に下部にある間詰石(12番)を取り除きそこにワイヤーを掛けると斜めになった状態で撤去できた。このことから石材の重心位置にワイヤーがくることになり、おそらく築城当時もそこに吊材を通して石積が行なわれた可能性がある。この様なことは、南側石垣西面の角石右隣(43番)でも同様のことが見られ(未撤去石の為実証はしていない)石材の中央部にある間詰石を取り除くと石裏面まで空洞になっており、吊材を通したと思われる。このことから、「切込ハギ」の築城技法に間詰石の存在が大きな意味を持っているように見える。

 

 

C.「エボシ石」の起こし工事作業において下部石垣 裏込栗石の中から2〜3段程度の石積が発見された。これは、以前京橋口肥後石右隣の大石の背後から発見された石垣とは異なっており(肥後石右隣の大石は、表面積は大きいが、石材控え寸法が下部で約70cm上部30cm程度と薄く石材の自重を支える目的とし裏側で石垣が築かれていた)、「エボシ石」は天 端部で約80cm、下部で約120cm、推定重量が57t近くもある為、十分自立すると考えられ、また、石積みが下部にのみ存在していたことから、「エボシ石」を積むための装置ではないかと考えられる。たとえば、この石積みを支点にして「エボシ石」を起こしたのではとおもわれる。

 

 

A 石垣の勾配

現存する石垣の表面が焼け爛れており、また、全体に石垣が傾いている為、昔の勾配を知る事は出来ないが今回比較的表面の良いよいところを測定した結果、平均勾配次表の通りとなった。

南側石垣                       北側石垣       
東面    0.122 83           南面(1)0.104 84
北面    0.081 85           西面    0.182 80
西面    0.143 82           南面(2)0.118 83
東面    0.105 84           北面    0.149 82

この為、今回修復工事では、全体のバランス及び出来上がり姿を考慮して、次のように設定した。

南側石垣                       北側石垣       
東面    0.12           南面(1)0.10   
北面    0.08           西面    0.18
西面    0.13           南面(2)0.12
                       東面    0.12
                       北面    0.15
方立石を修復する場合には016とする。

 

B 石材調査

平石の石材控え長さを平均すると南側石垣105cm北側石垣88cmとなっており、約17cm程度差がある。重量で見ると、南側石垣4.8t、北側石垣4.7t(エボシ石を除く)と南側、北側共ほぼ同じ重さであった。石材の表面積と裏面積との比較について見ると、角石では南側、北側共に1.01と裏面積と表面積がほぼ同じで るのに対し、平石では南側0.81、北側0.89で平石のほうが少し痩せていた。使用石材の分布で見ると、重量比較で南側5t未満の石材が59%、北側で50%となっており、南側の方が小さい石材が多く使用されていることが分かる。控え長さ比較では、南側北側共に80cm以上100cm未満の石材がもっとも多く、次に60cm以上80cm未満の順になっていた。しかし100cm以上の石材の使用状況では、南側が37%あるのに対し北側は14%で南側石垣に比較的控えの長い石材が使用されていた。最も控えが長いせきざいは2.6mもあった。石材の表面積と控えの長さの関係についてみると、控えが長い石材ほど表面積の大きいものは見られず、また、表面積の大きい物ほど、平均控え約3尺近くに分布していた。石質は、岡山県犬島産の花崗岩であり特徴ある石材は南側角石17番石で見られたが、その加工は表面「ノミ切り仕上げ」、裏面は出来るだけ軽くする為か「矢コギ」(平矢を幾度も入れて、石材を切り落とす方法)で加工されていた。その形状はたつむりのかくを思わせる様に、周囲から中心に向けて荒切り取ったと思わせる形状になっていた。合端面は石材の割れ、スス等で判別しにくいが見た限り「ノミ切り」加工されていたと思われ、上下の石材にうまく合っていた。30t近くもある石材を、うまく石組する事自体驚かされるが、合端合わせの為、幾度となく石積された可能性があり、重機、道具もない当時としてはその石積方法、手法にますます興味を覚える。

 

C 最下部石材の状況

石と石との間には比較的よく栗石が詰められており、面通りも良く合っていた。石材の控え寸法も140cmで平石と上部平石より控えの長い石材が使用されていた。また、石材は角石の上に載るように発見され、上部石積を行なう線(通り)に合わせてあった。この事は地盤下の石材と上部石材とに段差が生じていた事が分かる。最下部の石材の転び勾配を調べてみると、平均で0.12となっており石垣勾配0.08〜0.12である為石材はほぼ直角(勾配)で加工されている事が推測される。石材個々に推定すれば若干の違いがあると思われるが、平均して考えれば、ほぼ妥当である。
 門の敷石の状況であるが、両端部のみ堀削して調べた結果(一般道路の為前面堀削が出来なかった)段上に3本の敷石が発見された。状態は、桝形内部ほど低く、長さも54cm短くなっていた。両端の2本には端部より約50cm〜55cmのところにホゾあなが確認され、おそらくそこに渡櫓を支える柱が立っていたと思われる。両端部の高さを見ると、南側の方が約10cm程度高くなっており、ほぼ石垣の天端高さに比例していた。

 

 

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