中村石材工業株式会社

 

 

桜門桝形の修理

 それまでの石材の工事では、新たに取り換える石材が五石ないしは、多くても一〇石程度でしたが、今回の工事では、三〇トン級の石材数個と一〇トン級の石材多数で組み合わされている桜門桝形を修復するために、それらの多くを取り換えることになりました。

 計画を策定し、工事を完成させるまでには、一年間の時日しか与えられていませんでした。それまでの石材丁場は昔からの犬島丁場で、原石材を採石・運搬し、修理現場で加工しておりましたが、これだけの数量を単一丁場で採石するのは無理です。また、犬島は丁場の状態も良くなく、一九八八年夏には犬島を断念しました。

 幾つかの石材丁場がある小豆島に活路を見出すことにしました。ここには、作業を分担してこなせる職人もまだ多くいて、工期内には石材の確保ができると判断したためです。しかし、丁場の立地条件が悪く、標高三〇〇メートル近くの石切場から、最大勾配一五度(二七%)もある山道を、三〇トンを越える石材を、三個も無事に下ろすことが求められました。これは途方もないことで、考え得る総ての重機を投入し、石材を運ぶというより、山道を引きずり下ろした感があります。しかし、この工事では色々のことを学びました。 

 工期がないのと特殊な作業が多かったので、作業の効率化と、職人の技量の低下による作業の分担など、今日の石垣を施工する際の留意点が確立したと思います。

 第一に、今までの石材の採石方法は、撤去した石材の寸歩にあわせて原石材を切り出し、修理現場で計画された寸法に加工し、施工を進めておりました。この方法では、石材撤去してから図化し、原石材の採石を行い、表面をノミ切り加工して寸法通りに矢で荒落としし、さらに修理現場で微調整することになります。しかし、この方法では場合によっては、幾度も同じ箇所を加工することとなります。前記しましたように、石材を加工すれば、当然体積は減っていきます。また修理現場で実測した寸法に、当然の誤差があります。少し大きい目の石材を大坂城に持ち込み再加工するのですが、なかなか回りの石材と合わないものです。当然時間もかかります。

 そこで、考え出されたのが、完成予想図でした。現況の状態を写真測量で周辺の石組みの状態、元あったであろう状態を予想して、石材一石ずつの表面を想定します。また、石材の控え寸法を今までの経験値から想定し、原石の採石を予め行います。修理現場で石材の撤去を行うのと同時に、石材丁場で石材の表面の加工を行っておけば、事前に作業が進み工期を大幅に短縮できます。また同時に職人の技量の低下も時間をかけることで補えるわけです。

  (写真5 山出し作業状況)

 

 

   また完成予想図作成段階で、その石垣の持つ特徴や大きさ、礎石との関係、ひいては建物の構造まで、検討することができるようになってきました。石垣を撤去しますと、石材の大きさの検証や、表面の微細な加工痕などを事前に検証し、工事に反映し、作業を同時に遂行できるようになります。しかし、これらの作業は、特殊な知識を持つ技術者の存在が急務となります。また今までの経験値を数式的に解明することが必要となるわけです。こうして、桜門の工事も短期間の内に無事終了しましたが、その苦労で得られた方法や技術が、文化財としての石垣の修復に対する認識を、さらに深める結果になったと思います。

 (図2 桜門の完成予想図)

 

 

 一方では、職人の技量の低下はより深刻なものとなっております。近年の一般石材工事は、大半が中国で製品化して輸入し、施工することになっております。その結果、国内の石材丁場が全滅に近い状態となり、国内での仕事量が著しく減少しております。そのことは雇用に大きな影響を与え、ただでさえ老齢化しております、石材丁場での職人の確保すらできなくなってきております。

 職人の技量の低下に加え、就業人口の減少、ひいては石材丁場の廃業へと、問題は深刻化しております。恐らく、当社のみではなく全国的な問題であり、日本を代表する歴史遺産である城郭石垣も、将来は外国人の労働力に頼る日が来るのかと、危惧いたすところです。

 

(写真6 桜門桝形の修理烏帽子石起こし)

阪神・淡路大震災から

 一九九五(平成七)年一月十七日、淡路島を震源とする阪神・淡路大震災により、大阪市周辺も大きな被害を受けました。幸い大阪城は大きな被害はなく、一部の櫓の土塀が痛んだ程度でした。石垣も大きく崩壊した箇所はなく一安心したものです。しかし、細部にわたり調査を進めましたところ、一部の石垣で石材の角が欠けているところが数ヶ所発見されました。それは昔からの石垣で、石材の状態も良く、ゆがみも無かったのですが、大きな揺れが伝わり、石材を大きく揺らしたことで生じたものと思われます。

 一つは大手門桝形の巨石で、周辺の間詰め石が一部で抜け落ちており、その周辺の石材が薄くはがれた状態になっていました。他の場所は何ともないのに、この箇所だけがなぜ欠けたのかを考えてみますと、桝形に用いられている石材は表面を意識するあまりに石材の控え寸法が二尺5寸(75cm)から三尺(90cm)と厚みが極めて薄く、一石の重量が大きいために地震力(横揺れに対しての力)が石材の表面部分に加わり間詰め石を押し出し、石材との合端には表面の剥離が生じたものと思われます。

また、京橋口の桝形で一九七四(昭和四九)年から一九七八年にかけて行った石垣で、当時の担当者に聞いたところ、石材は原石で搬入しており大阪城で加工したものでした。当時は表面の形状を意識するあまり、石材の重量や接合する位置などを考慮しないで行ったことが判明しました。確かにこの時期以後の石垣は、石材と石材とが密に着いており、目地のない状態になっております。目地があるとしても極めて小さく、表面に近いところで接合しております。この状態を作るには控え部分を細かく削り込む必要性があり、ひいては石材の重量を損なうものであります。

 現在では目地に漆喰などの接着剤を施さない「空積み」の基本は、表面より五センチ程度手前の二番着きが常識となっておりますが、当時はそのような考えがなく、見せかけの形状を意識した結果と思われます。

 今日では、このような結果を踏まえて石組みの方法や積み方の工夫を行っております。

 

(写真8 最近の二の丸東側石垣作業状況) 

おわりに

 最後に、今回大阪城石垣の修復工事を、改めて振り返る機会を与えて下さった編者の皆さまに御礼申上げます。

 過去の様々な施工で、数知れない問題がありました。振り返りますと、色々な点で反省もあります。そのつど大阪城天守閣にご指導を賜ったり、奈良文化財研究所の先生方に御意見を伺ったり、また文化庁記念物課の先生方にもご足労をお願いしたものです。改めて感謝申上げる次第です。また、刻印石が出土しますと築城史研究会の藤井重夫先生をはじめ多くの先生方にお願いして、拓本などを採取していただくこともありました。

 私どもは、その時々に悔いの残らない仕事を、という信念をもって取り組んできただけだと思います。現在の大阪城は、まだまだ築城時の姿にはほど遠く、数多くの痛んでいるところや、整備を図らねばならないところがあります。今後のことを考えますと、「もう半世紀が過ぎた」との考えより、「まだ半世紀しか過ぎていないのか」との思いを強くします。今後も石垣の修復を精一杯、後世に恥じないように取り組んで参りたいと思っております。

 

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