中村石材工業株式会社

 

 

 

大阪城の石垣

              中村孝

中村石材と大阪城

 私が大阪城の石垣に携わりましたのは、戦後日本が高度経済成長期に入り、大阪城を都市公園として本格的に整備することが決った頃と記憶しております。

 当時の大阪市は、一九七〇(昭和四五)年の日本万国博覧会開催に向け、都市として大きく変貌を遂げつつありました。その中で大阪城も、公園としての整備が大きな課題としてクローズアップされてきました。

 それ以前の大阪城は、江戸時代を終える一八六八(慶応四)年、戊辰戦争の大火で

大半の建物は焼失し、一九四五(昭和二〇)年の空襲では、残りの建物の半数を失いました。現存する江戸時代の建物は一三棟を数える程度です。

 当然下部の石垣も建物の焼失時に被害を受け、至るところ痛んだ状態でした。また、大阪空襲では数ヶ所で被弾し、その影響で石垣に大きな穴が開いた状態でした。そして終戦後の大阪城は連合軍駐屯地となりましたから、史跡公園とはほど遠い状態でした。ようやく市民の史跡公園として、その機能を果たすよう求められるようになったわけです。

   (写真1 太平洋戦争で崩壊した石垣)

 

 一九五四(昭和二九)年から、本丸に入る桜門東側石垣の修復をかわきりに、以後、半世紀近くにわたり、戦災等で壊された石垣の修復に取り組んでおります。

 先代の話では、当初通路には石垣の残材が転がっており歩くのも辛い状態で、当時は山里曲輪にかかる極楽橋もありませんから、桜門から入って桜門から出る本丸で循環する一方通行の状態でした。最初の作業は、桜門や天守台を中心に散在する石材を、拾い集めては石を積む作業を行っていたと聞いております。このような状況下では、石垣を文化財として扱っていたとは到底考えられません。

 昭和三〇年代も後半になった頃でしょう、頽廃しておりました石垣の修復も終了してきました。四〇年には青屋門の建物の解体修理に伴う工事を境にして、残存している石垣の解体修理を本格的に進めることになりまし。ちょうど石材に番号を付け、元の位置に戻す工夫を行い始めた頃です。

 

大阪城で学んだ工夫

 当時の大阪城では、建造物の解体修理も平行して進められておりました関係上、当時の当社の作業員も、大工が木材に番号を付ける作業(番付)を日々見聞しておりました。その作業員が、試しに石材に番号を付けて作業を行ったところ、効率的に進めることができ、それから工夫を重ね、今では石垣修理の方法として定着するに至りました。

 しかし当初は番号をペンキで直接石材の表面に書いておりましたから、工事終了後見苦しく、それを消すためにたいへんな労力を要した苦い経験があります。その後は工夫し、表面にガムテープを貼り、一旦記録した上で、石材の控え部分(側面)に改めて番号を書き移すなど試行錯誤を繰り返しました。当初は番号の重要性がわからず、同じ番号があったり、面ごとに違う番号があったりして、相当混乱しました。

 

 

 

 

 

 

  (写真2 石材に直接番号を書かれた石垣)

 

 石垣を解体した時、もと存在した石が失われると石を積む際に、合端や据わりなどを考えて別の石材を同一の形状に加工せねばなりません。これは大きな手間です。また削り過ぎればその寸法が小さくなり、その結果さらに別の石材を求めねばならないという、大きな労力が必要となります。石材に番号を丁寧に付けることにより、その労が軽減され、結果として楽になることを学んできました。このような作業が今日では、修復工事には欠くべからざる重要なものとなっております。

 石垣を文化財として見る時、この番付は築城当時にも通ずる作業だと思います。元来、職人は少しでも作業の効率を上げ無駄な作業を少なくするように、道具や機械や作業手順などを、日々工夫してきたと思われます。その方法を知ることが文化財の認識を高める上で、最も重要なことのように思います。

 一九七四(昭和四九)年から、大阪城の北西側に位置する京橋門の桝形石垣工事に着手しました。ここでは、四八トンの大石を手がけることになります。石材は瀬戸内産錆系花崗岩(岡山県犬島、東田丁場)を用いて石材加工を行い、大阪城に持ち込み、修理現場で組み立てる仕事でした。石材の表面積は二三・七平方メートル、約一五畳ほどの大きな石材で、石垣を解体してみますと、その石材は比較的薄く、平均で七五センチメートル程度でした。今までこれほど大きく、かつ薄い石材を扱ったことがなく、色々な点で苦労した思い出があります。

 まず、原石材の確保は東田貞次郎氏の御努力で、良質な石材を得ることができましたものの、同じ形状に石材を加工せねばなりませんでした。これは大変な困難を伴いました。と申しますのは、「肥後石」は周囲の石材との取り合いや、石材の裏側から出てきた裏石垣に大石をもたせかけられるように、石積みが工夫されていたためで、形状や控え長さが違えば、その場所に合わなくなる恐れがあります。当然これほどの石材ですから、取り換えや失敗は許されません。

 

 

        

 

 

 

 

 

  (写真3 肥後石周辺施工状況)

  (写真4 修羅に乗った大石)

 このような状況下で色々な工夫や検討を加え、施工に移りました。事前に表面の寸法計測を行い、細部にわたり加工を施して、施工する方法を取りました。また、重量との戦いがあり、大阪市内の橋を通過する際、重量規制に引っ掛かり、その対策が必要でした。規制に合わない場合には、通行する橋の上部に鉄板を敷き、補強を行わなければなりませんでした。特殊運搬となることから、夜間の運搬となります。また、石材が薄いことから、石材に負荷をかけられないため、鉄製の修羅を用いて浜まで石材を引き出す大がかりな作業を行いました。

 

 

                               (図1 肥後石横の巨石) 

 当時の常識から、石材を三分割し修理現場で組み立てれば良いのでは、という意見もありましたが、検討の結果、同一の大きさの石材で施工ができる見通しが立ちました。しかし、私としては、失敗しないかと不安な日々を過ごした記憶があります。

 この頃からでしょうか。表面や石材の控え長さにも注意をはらい始めました。差し替えのため撤去した石材の重要性や、記録を残すことの意義を感じたのも、この頃だと思います。また、初めて経験する大がかりな施工ですから、元請けの株式会社大林組の技術を最大限利用することとなり、当然、事前検討の重要さも痛感した次第です。

 またこの頃、機械・道具類の大型化が始まり、採石や施工方法も大きく変わりました。例えば、石を吊るクレーンの軽量化と操作の簡便化が上げられます。掘削機械も大型化しました。結果、現場では作業に余裕が生じ、工期を短縮したり丁寧な石材加工を図ることができ、施工の出来の上からも一番良い時代だったと思います。京橋口の「肥後石」を一個の石材で施工できたことに対し、周りの協力なしではなし得なかったことと感謝しています。

 大阪城で修復工事の基礎を築き、その方法を当社が関係しておりました全国の石垣の修復工事に普及し、今日の施工モデルとなっていることも事実です。

 その後の一〇年間、大坂城の修復工事はこの方法が定着しました。しかし反面、機械に頼るのが主流となり、職人の技量の低下がこの時期を境に、顕著に現れるようになってきました。もう修理現場で石材の加工ができなくなってきています。例を挙げますと、軽微なノミ切り加工はできるのですが、表面を全面にノミ切り加工することができなくなってきております。これは、近年の石職人の老齢化と作業の分担化によるものです。ちょうど石材加工にいささか危惧を抱いていた一九八八(昭和六三)年、一度に大阪城の石垣を大規模に修復する計画が持ち上がりました。

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